読書手帖2020

日頃の読書の記録です。

「乞食学生」太宰治(「太宰治全集3」ちくま文庫/1988年)

 

太宰治全集〈3〉 (ちくま文庫)

太宰治全集〈3〉 (ちくま文庫)

  • 作者:太宰 治
  • 発売日: 1988/10/01
  • メディア: 文庫
 

 

 太宰治の作品の中でも、特に長く心に留めて偏愛しているのが、作品集『東京八景』に収録された作品のひとつ、「乞食学生」です。仕事への情熱を失いかけたときや、世間の常識に染まってつまらない大人になってしまったと自覚するとき、この作品世界の景色が、ふと思い起こされます。

 

 「乞食学生」は、1940(昭和15)年に文芸雑誌『若草』に連載された中編小説です。太宰は、この前年に結婚し、三鷹に新居を構えたばかり。規則正しい執筆生活の中から、「走れメロス」など新たな作品を次々と発表していく時期に書かれた作品です。

 

 あらすじは、非常にシンプルです。30過ぎの作家である「私」は、納得のいかない駄作をポストに投函すると、急に生きていることが嫌になり、玉川上水の土手に向かって歩いていきます。そこで、川を流されている少年と出会い、交流をするうちに青春を取り戻し、執筆することへの熱意を蘇らせます。しかし、その熱が最高潮に達したとき、土手の上で目を覚まし、結局は夢だったというオチです。

 

 私が特に気に入っているのが、少年と出会う前、つまり物語の本筋が始まる前の部分です。以下、小説の冒頭部分です。太宰を思わせる「私」が三鷹駅前のポストにたたずむシーンから始まります。

 

 一つの作品を、ひどく恥ずかしく思いながらも、この世の中に生きてゆく義務として、雑誌社に送ってしまった後の、作家の苦悶に就いては、聡明な諸君にも、あまり、おわかりになっていない筈である。その原稿在中の重い封筒を、うむと決意して、投函する。ポストの底に、ことり、と幽かな音がする。それっきりである。まずい作品であったのだ。表面は、どうにか気取って正直の身振りを示しながらも、その底には卑屈な妥協の汚い虫が、うじゃうじゃ住んでいるのが自分にもよく判って、やりきれない作品であったのだ。

 

  生活のため、お金のためと自分に言い聞かせ、仕事の質を妥協してしまう苦しさ。社会人になれば、誰しも似たような経験はあるもので、冒頭から引き込まれます。

 

 続いて、「わあと叫んで、そこらをくるくると走り狂いたいほど、恥ずかしい。下手くそなのだ。私には、まるで作家の資格がないのだ。無智なのだ。私には、深い思索が何も無い。ひらめく直感が何もない」と激しい自己嫌悪が続きます。小説の中での言葉とはいえ、あの文豪・太宰もこのように自らの文才に自信を無くすことがあったのかと思うと、自分の小さな悩みなど、大したことはないと慰められる気持ちになります。

 

  続く玉川上水沿いを歩いていく描写は、特に好きな部分です。三鷹から吉祥寺にかけての井の頭公園付近が物語の舞台となっているため、現実の風景と小説の世界がつながっていることもこの作品の大きな魅力と言えます。私はいつも、三鷹駅から万助橋にかけて、この小説のイメージをなぞるように散歩しています。

 

 私は、家の方角とは反対の、玉川上水の土堤のほうへ歩いていった。四月なかば、ひるごろの事である。頭を挙げて見ると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い、青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。ひっそりしている。ああ、こんな小説が書きたい。こんな作品がいいのだ。なんの作意も無い。私は立ちどまって、なお、よく見ていたい誘惑を感じたが、自分の、だらしない感傷を恥ずかしく思い、その光るばかりの緑のトンネルをちらと見たばかりで、流れに沿うて土堤の上を、のろのろ歩きつづけた。

 

 春の玉川上水の光り輝く青葉のトンネルが眼前に広がるようです。このあと主人公は、無心に歩く速度を上げていきます。テンポのよい文章に、読者の視点はしだいに主人公と同化していきます。 

 

だんだん歩調が早くなる。流れが、私をひきずるのだ。水は幽かに濁りながら、点々と、薄よごれた花びらを浮かべ、音も無く滑り流れている。私は、流れてゆく桜の花びらを、いつのまにか、追いかけているのだ。ばかのように、せっせと歩きつづけているのだ。その一群の花弁は、のろくなったり、早くなったり、けれども停滞せず、狡猾に身軽くするする流れてゆく。万助橋を過ぎ、もう、ここは井の頭公園の裏である。私は、なおも流れに沿うて、一心不乱に歩きつづける。

 

 万助橋というのは今もあり、この場所に立つといつもこの一編を思い出します。そして、のちに太宰が入水自殺を図ることになる玉川上水の恐ろしい説明が始まるのです。

 

この辺で、むかし松本訓導という優しい先生が、教え子を救おうとして、かえって自分が溺死なされた。川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。この土地の人は、この川を、人喰い川と呼んで、恐怖している。私は、少し疲れた。花びらを追う事を、あきらめて、ゆっくり歩いた。たちまち一群の花びらは、流れて遠のき、きらきらと陽に白く小さく光って見えなくなった。

 

 現在の玉川上水は、川底も浅く水量も少ないため、太宰が入水自殺したと聞いてもピンときません。しかし、この部分を読むと、かつては「人喰い川」と呼ばれるほど危険な川だったことがわかり、太宰が死んだ日の光景をつい想像してしまいます。それはさておき、物語はこのあと、川を流れてくる少年と出会うところから展開していきます。

 

「乞食学生」は、数ある太宰の作品の中では、とりたてて注目される作品ではありません。その理由のひとつに、いわゆる「夢落ち」で終わるという太宰にしては安直な構成を指摘する声があるようです。

 

 しかし、私がこの作品に惹かれるのは、30代前半の太宰の作家としての苦悩が、主人公の夢の中の描写に現れていると思うからです。主人公は井の頭公園で出会ったちょっとクセのある少年をかつての自分に重ね合わせ、夢の中での交流を通して、仕事への情熱に再び胸を焦がしていきます。クライマックスでは次のような決意とも取れる言葉を発します。

 

僕は、心の弱さを隠さない人を信頼する

 

「 なるべく僕は、清潔な、強い、明るい、なんてそんな形容詞を使いたくないんだ。自分のからだに傷をつけて、そこから噴き出た言葉だけで言いたい。下手くそでもいい、自分の血肉を削った言葉だけを、どもりながら言いたい」

 

 まっすぐに、誠実に語られる主人公の言葉ひとつひとつが愛おしいです。人は年齢を重ねると、物事にひたむきに向き合っていたころの気持ちを忘れがちです。主人公が夢の中で、子どものように心を躍らせ夢を語る姿に、作家としての太宰の純粋な心のうちをのぞいた気がしました。

 

 小説というかたちをとるだけでは飽き足らず、「夢落ち」まで用意するというフィクションの二重構造に、太宰が本音を語ることに対して常に言い訳を用意しているような、一種の照れくささが感じられ、それがまた彼の魅力をいっそう高めているように思います。

 

 夢から覚めたとき、主人公は、現実の自分に戻って苦笑します。小説は以下のように締めくくられます。

 

私は、やはり三十二歳の下手な小説家に過ぎなかった。少しも、若い情熱が湧いて来ない。その実を犇と護らなん、その歌の一句を、私は深刻な苦笑でもって、再び三度、反芻しているばかりであった。

 

 太宰らしい皮肉な表現ですが、その胸には微かに熱いものが宿っているに違いありません。これまでの自分に自信を失い、進むべき道に迷ったとき、初心を思い出させてくれる小説。それが、この「乞食学生」なのです。