読書手帖2020

日頃の読書の記録です。

「何もかも憂鬱な夜に」中村文則(集英社文庫/2012年)

 

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

  • 作者:中村 文則
  • 発売日: 2012/02/17
  • メディア: 文庫
 

  もし純文学に正統派というものがあるならば、現代作家でその血を最も色濃く受け継いでいるのは誰か。その1人が、芥川賞作家の中村文則さんだと思っています。近代文学の巨匠、ドストエフスキーサルトルカミュから、芥川龍之介太宰治大江健三郎に至るまで、脈々と連なる文学の系譜を引き継ぎ、現在も作品を生み出し続けています。

 

 「何もかも憂鬱な夜に」は、中村文則さんの6冊目の作品です。毎回、中村さんの文庫のあとがきは、「この小説は、僕の六冊目の本になる」というような書き出しになっています。作家自身の成長の過程も知ることができると同時に、作品を1作目から全部そろえたいというコレクション欲をかき立てられます。

 

 施設で育った刑務官の「僕」は、18歳のときに会社員の夫婦を殺害し、地裁で死刑判決を受けた20歳の未決囚・山井の担当となります。控訴期限が迫っても、山井は控訴しようとしません。どこか自分に似た山井と接する中で、「僕」が抱える自殺した友人の記憶や、自分を受け止めてくれた施設長とのやりとり、自分の中の混沌が描き出されます。重大犯罪や死刑制度、生と死といった問題に向き合うヒントを得られる作品です。

 

 小説はもちろん素晴らしいのですが、この文庫本を読む最大の価値は、又吉直樹さんによる解説部分にあります。この部分を読むためだけでも、買う価値があります。解説では、又吉さんから見て、中村文則さんがいかに現代文学の世界で重要な位置を占めているかが記されています。

 

中村文則さんは特別な作家だ。小説という概念が生まれて以来、様々な作家が人間を描こうと多種多様な鍬を持ち土を垂直に掘り続けてきた。随分と深いところまで掘れたし、もう鍬を振り下ろしても固い石か何かに刃があたり甲高い音が響くばかり。その音は人間の核心に限りなく迫るものがあったし、人間の心に訴える強力な力もあった。そこで今度は垂直に掘り進めてきた穴を横に拡げる時代に突入した。それに適した鍬が数多く生まれた。そうしてできた変わった形態の穴は斬新と呼ばれたりもした。新しいものは新鮮でとても愉快だ。だが愉快と充足を感じる一方で何かを待望するような飢餓の兆しを感じはじめてもいた。 そんな世界に於いて、中村文則という稀有な作家はこれ以上掘り進めることはできないと多くの人が諦観するなか、鋭く研ぎ澄まされた鍬を垂直に強く振り下ろし続けていた。そして、固い岩に少しずつ鍬を食い込ませていく

 

 見事に本質を捉えた名文ではないでしょうか。又吉さんは、小説の魅力とは、「人間の精神内部で発生する葛藤や懊悩や混沌に対して、より鋭敏に緻密に繊細に迫れる点」にあると述べ、中村文則さんの「作品のなかで執拗に人間の暗部や実態に正面から向き合い、文学と呼ばれるものの本質に真っ向から対峙し一歩もひこうとしない」、「小説家としての佇まいに」強く惹かれるといいます。

 

 又吉さんは、「夜を乗り越える」(小学館よしもと新書/2016年)でも「何もかも憂鬱な夜に」の文庫本に解説を寄せたことに触れ、中村さんを知った興味深いきっかけについて、以下のように述べています。

 

近代文学を中学生の頃から読んできて、二十代になって現代の小説を読み始めた時に、近代文学の空気感と文章の密度を保ったまま現代で書いている若い小説家はいないのかなと思いました。(中略)そんな話を編集の方と飲みながらしていた時に、中村文則さんの名前を教えてくれました。読んでみて、これだと思いました。

 

 これを読んで、冒頭に書いた純文学の正統派は、中村文則さんであるという思いが確信に変わりました。又吉さんもまたこの流れを強く意識して作品を書いていることを知り、又吉さんの小説やエッセイをより深く理解できるようになった気がしました。

 

 人生は有限です。限られた時間でどんな本を読み進めるか。迷ったときの指針としてひとつ、「鍬を垂直に掘り進めている」作家の作品を味わうことを優先してみるのもいいかもしれません。

 

■主任はいつも、自分の言葉を真剣に使い、人の言葉も真剣に聞いた。

■真下のノート「何かになりたい。何かになれば、自分は生きていける。そうすれば、自分は自分として、そういう自信の中で、自分を保って生きていける。まだ、今の自分は仮の姿だ」「こんなことを、こんな混沌を、感じない人がいるのだろうか。善良で明るく、朗らかに生きている人が、いるんだろうか。たとえばこんなノートを読んで、なんだ汚い、暗い、気持ち悪い、とだけ、そういう風にだけ、思う人がいるのだろうか。僕は、そういう人になりたい。ホントに、ホントに、そういう人になりたい。これを読んで、馬鹿正直だとか、気持ち悪いとか思える人に……僕は幸福になりたい。」

■「これは、凄まじい奇跡だ。アメーバとお前を繋ぐ何億年の線、その間には、無数の生き物と人間がいる。どこかでその線が途切れていたら、何かでその連続が切れていたら、今のお前はいない。いいか、よく聞け」

■「現在というのは、どんな過去にも勝る。そのアメーバとお前を繋ぐ無数の生き物の連続は、その何億年の線という、途方もない奇跡の連続は、いいか? 全て、今のお前のためだけにあった、と考えていい」

■「ベートーヴェンも、バッハも知らない。シェークスピアを読んだこともなければ、カフカ安部公房の天才も知らない。ビル・エヴァンスのピアノも」。 あの人は、タバコのパックを指で叩いた。「黒澤明の映画も、フェリーニも観たことがない。京都の寺院も、ゴッホピカソだってまだだろう」。彼はいつも、喋る時に僕の目を真っ直ぐに見た。 「お前は、まだ何も知らない。この世界に、どれだけ素晴らしいものがあるのかを。俺が言うものは、全部見ろ」

■僕は、あの人がつくったリストに、順番に触れていった。難解なものに出会うと、あの人に自分の意見を言い、長く長く、その作品について喋った。「自分の好みや狭い了見で、作品を簡単に判断するな」とあの人は僕によく言った。「自分の判断で物語をくくるのではなく、自分の了見を、物語を使って広げる努力をした方がいい。そうでないと、お前の枠が広がらない」僕は時々、わかった振りをして、あの人に笑われることがあった。

■「死刑には色々問題があるのもそうだけど、人間と、その人間の命は、別のように思うから・・・殺したお前に全部責任はあるけど、そのお前の命には、責任はないと思ってるから。お前の命というのは、本当は、お前とは別のものだから」

■丁寧に、組み立ててこうと、思うんだよ。生活を、一つ一つ。色々な責任を負って、自分の周りに、囲いをつくって。

「乞食学生」太宰治(「太宰治全集3」ちくま文庫/1988年)

 

太宰治全集〈3〉 (ちくま文庫)

太宰治全集〈3〉 (ちくま文庫)

  • 作者:太宰 治
  • 発売日: 1988/10/01
  • メディア: 文庫
 

 

 太宰治の作品の中でも、特に長く心に留めて偏愛しているのが、作品集『東京八景』に収録された作品のひとつ、「乞食学生」です。仕事への情熱を失いかけたときや、世間の常識に染まってつまらない大人になってしまったと自覚するとき、この作品世界の景色が、ふと思い起こされます。

 

 「乞食学生」は、1940(昭和15)年に文芸雑誌『若草』に連載された中編小説です。太宰は、この前年に結婚し、三鷹に新居を構えたばかり。規則正しい執筆生活の中から、「走れメロス」など新たな作品を次々と発表していく時期に書かれた作品です。

 

 あらすじは、非常にシンプルです。30過ぎの作家である「私」は、納得のいかない駄作をポストに投函すると、急に生きていることが嫌になり、玉川上水の土手に向かって歩いていきます。そこで、川を流されている少年と出会い、交流をするうちに青春を取り戻し、執筆することへの熱意を蘇らせます。しかし、その熱が最高潮に達したとき、土手の上で目を覚まし、結局は夢だったというオチです。

 

 私が特に気に入っているのが、少年と出会う前、つまり物語の本筋が始まる前の部分です。以下、小説の冒頭部分です。太宰を思わせる「私」が三鷹駅前のポストにたたずむシーンから始まります。

 

 一つの作品を、ひどく恥ずかしく思いながらも、この世の中に生きてゆく義務として、雑誌社に送ってしまった後の、作家の苦悶に就いては、聡明な諸君にも、あまり、おわかりになっていない筈である。その原稿在中の重い封筒を、うむと決意して、投函する。ポストの底に、ことり、と幽かな音がする。それっきりである。まずい作品であったのだ。表面は、どうにか気取って正直の身振りを示しながらも、その底には卑屈な妥協の汚い虫が、うじゃうじゃ住んでいるのが自分にもよく判って、やりきれない作品であったのだ。

 

  生活のため、お金のためと自分に言い聞かせ、仕事の質を妥協してしまう苦しさ。社会人になれば、誰しも似たような経験はあるもので、冒頭から引き込まれます。

 

 続いて、「わあと叫んで、そこらをくるくると走り狂いたいほど、恥ずかしい。下手くそなのだ。私には、まるで作家の資格がないのだ。無智なのだ。私には、深い思索が何も無い。ひらめく直感が何もない」と激しい自己嫌悪が続きます。小説の中での言葉とはいえ、あの文豪・太宰もこのように自らの文才に自信を無くすことがあったのかと思うと、自分の小さな悩みなど、大したことはないと慰められる気持ちになります。

 

  続く玉川上水沿いを歩いていく描写は、特に好きな部分です。三鷹から吉祥寺にかけての井の頭公園付近が物語の舞台となっているため、現実の風景と小説の世界がつながっていることもこの作品の大きな魅力と言えます。私はいつも、三鷹駅から万助橋にかけて、この小説のイメージをなぞるように散歩しています。

 

 私は、家の方角とは反対の、玉川上水の土堤のほうへ歩いていった。四月なかば、ひるごろの事である。頭を挙げて見ると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い、青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。ひっそりしている。ああ、こんな小説が書きたい。こんな作品がいいのだ。なんの作意も無い。私は立ちどまって、なお、よく見ていたい誘惑を感じたが、自分の、だらしない感傷を恥ずかしく思い、その光るばかりの緑のトンネルをちらと見たばかりで、流れに沿うて土堤の上を、のろのろ歩きつづけた。

 

 春の玉川上水の光り輝く青葉のトンネルが眼前に広がるようです。このあと主人公は、無心に歩く速度を上げていきます。テンポのよい文章に、読者の視点はしだいに主人公と同化していきます。 

 

だんだん歩調が早くなる。流れが、私をひきずるのだ。水は幽かに濁りながら、点々と、薄よごれた花びらを浮かべ、音も無く滑り流れている。私は、流れてゆく桜の花びらを、いつのまにか、追いかけているのだ。ばかのように、せっせと歩きつづけているのだ。その一群の花弁は、のろくなったり、早くなったり、けれども停滞せず、狡猾に身軽くするする流れてゆく。万助橋を過ぎ、もう、ここは井の頭公園の裏である。私は、なおも流れに沿うて、一心不乱に歩きつづける。

 

 万助橋というのは今もあり、この場所に立つといつもこの一編を思い出します。そして、のちに太宰が入水自殺を図ることになる玉川上水の恐ろしい説明が始まるのです。

 

この辺で、むかし松本訓導という優しい先生が、教え子を救おうとして、かえって自分が溺死なされた。川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。この土地の人は、この川を、人喰い川と呼んで、恐怖している。私は、少し疲れた。花びらを追う事を、あきらめて、ゆっくり歩いた。たちまち一群の花びらは、流れて遠のき、きらきらと陽に白く小さく光って見えなくなった。

 

 現在の玉川上水は、川底も浅く水量も少ないため、太宰が入水自殺したと聞いてもピンときません。しかし、この部分を読むと、かつては「人喰い川」と呼ばれるほど危険な川だったことがわかり、太宰が死んだ日の光景をつい想像してしまいます。それはさておき、物語はこのあと、川を流れてくる少年と出会うところから展開していきます。

 

「乞食学生」は、数ある太宰の作品の中では、とりたてて注目される作品ではありません。その理由のひとつに、いわゆる「夢落ち」で終わるという太宰にしては安直な構成を指摘する声があるようです。

 

 しかし、私がこの作品に惹かれるのは、30代前半の太宰の作家としての苦悩が、主人公の夢の中の描写に現れていると思うからです。主人公は井の頭公園で出会ったちょっとクセのある少年をかつての自分に重ね合わせ、夢の中での交流を通して、仕事への情熱に再び胸を焦がしていきます。クライマックスでは次のような決意とも取れる言葉を発します。

 

僕は、心の弱さを隠さない人を信頼する

 

「 なるべく僕は、清潔な、強い、明るい、なんてそんな形容詞を使いたくないんだ。自分のからだに傷をつけて、そこから噴き出た言葉だけで言いたい。下手くそでもいい、自分の血肉を削った言葉だけを、どもりながら言いたい」

 

 まっすぐに、誠実に語られる主人公の言葉ひとつひとつが愛おしいです。人は年齢を重ねると、物事にひたむきに向き合っていたころの気持ちを忘れがちです。主人公が夢の中で、子どものように心を躍らせ夢を語る姿に、作家としての太宰の純粋な心のうちをのぞいた気がしました。

 

 小説というかたちをとるだけでは飽き足らず、「夢落ち」まで用意するというフィクションの二重構造に、太宰が本音を語ることに対して常に言い訳を用意しているような、一種の照れくささが感じられ、それがまた彼の魅力をいっそう高めているように思います。

 

 夢から覚めたとき、主人公は、現実の自分に戻って苦笑します。小説は以下のように締めくくられます。

 

私は、やはり三十二歳の下手な小説家に過ぎなかった。少しも、若い情熱が湧いて来ない。その実を犇と護らなん、その歌の一句を、私は深刻な苦笑でもって、再び三度、反芻しているばかりであった。

 

 太宰らしい皮肉な表現ですが、その胸には微かに熱いものが宿っているに違いありません。これまでの自分に自信を失い、進むべき道に迷ったとき、初心を思い出させてくれる小説。それが、この「乞食学生」なのです。